カテゴリー別アーカイブ: はたらくコラム

ニンベンさん

ニンベンさんとは、「偽造クリエイター」の隠語である。
「偽」の字の偏をとって、ニンベンさんと呼ばれる―――。別称、ニンベン師。

 

国会議員秘書を十年つとめたみっちゃんが、新宿ゴールデン街のバーテンを始めたのは、平成もまだ二十年に届かない年だった。

わたしとみっちゃんは、とあるイベント企画会社の仕事で出会い、意気投合した。わたしはその企画でライティングを請け負い、みっちゃんは中途入社の新人で、先輩といっしょに企画進行全般を担当していた。

みっちゃんは小柄で人懐こい、人好きのするいい子だった。大ぶりのめがねをかけた無防備な笑顔は、まるでアニメのあられちゃんみたいで、あの笑顔にはずいぶんなごまされたものだ。
みっちゃんにとっては、国会議員秘書を辞めてから最初の仕事で、「会社での仕事、すごくうれしい。頑張ります」とはりきっていた。

ところがみっちゃんがついた先輩というのが、新人をいじめることで有名な、ひと癖もふた癖もある女性だったので心配していたところ、案の定、みっちゃんは企画会社を二カ月で辞めてしまったのだ。

心配していた矢先、ゴールデン街にバーテンとしてもぐりこんだと報告があった。

 

ゴールデン街は新宿のカオスだ。
おなじ新宿でも歌舞伎町一番街や二丁目とはまた違う、独特の雰囲気がある。文化人とクリエイティブ系業界の不夜城。サブカル文化やアングラ芸術の発信地ともいえる。

有名どころでは、Bエリア「クラクラ」など。坂口安吾夫人が銀座で開いていた文壇バー「クラクラ」から、承諾を得て、先のオーナーがつけたものというのは有名な話だ。9坪ほどに40人ほどが入れるという大箱のその店は、一ヶ月に一度程度、歌人の俵万智さんが、カウンターで料理を作りママ業をしていた。

みっちゃんの店もおもしろかった。

店の看板は有名漫画家の書いた手書きで、それ自体が名物となっていた。飲みにくる常連客もアート系クリエイターが多い。みっちゃんの人徳もあるのだろうが、とにかく客層のよいことが私を安心させた。

わたしは当時、みっちゃんの店で飲むため、裏新宿をたびたび訪れるようになったのだが、そのおかげでいろいろな面白いことを聞き、面白いものを見た。

 

今はどうだか知らないが、おなじ歌舞伎町でも、ゴールデン街から離れた歌舞伎町一番街は、ホストの客引きが絶えない。飲み屋も「ケツ持ち」の存在が匂い、歩いているだけで治安の悪さを感じさせる。

たとえばある小汚い居酒屋は、早い時間から開店している。商売になるのだろうかと思って見ていると、けっこうひっきりなりに人が出入りする。ヨレヨレの伊勢丹の紙袋を持っている人が多いなと思ってはいたのだが、それがシャブ売買取引の目印だとうわさで聞いたのは、かなり後になってからだった。
そういえばそのあたりでは、奇声を発し、細い裏路地をあちらこちらぶつかりながら、正体をなくして、左右ジグザグに走っていく人がよくいた。

またある夜は、スモーク窓の黒塗りのベンツがスッと店の真横に横付けさるのを見た。車から男が降りた途端、道端にいた人がわらわらと群がり、ベンツから店入り口までその男をカバーする「弾よけ」の壁を作った。
フラッシュモブかと思うほど、その辺りにいた普通の人たちが、一瞬でその人の周りに集まったのだが、不思議だったのは、普通のスーツ姿の一見カタギ風の人もけっこう混じっていたことだった。
「市役所勤務です」とでも言いそうな、堅い感じの雰囲気の人が複数人いたのだ。

「あからさまにその筋の風体」という人ばかりが、その筋の人というわけではないのだな、と、へんに感心したものだった。

 

私がそのような新宿奇譚を話すとき、みっちゃんは決まって、
「わたしは国会議員秘書時代、もっと見たくないもの、たくさん見ちゃったからねぇ」
そう言っていつも通り、ニコニコと無邪気な笑顔を見せた。

 

距離にすれば少ししか離れていないが、二丁目に行くと、ぐっと雰囲気がクリーンになる。女性が飲むにはもっとも安全なエリアかもしれない。ナンパ目的で男性から声をかけられることなど一切ない。路上で酔いつぶれていても、おそらく放っておかれるだろう。

しかし店舗それぞれに厳然としたルールがあるらしく、それを侵害する素人は歓迎されないと、ゲイの友人はわたしに忠告した。

「この店はミックスバーだからあんたも入れるけど、あっちの店は女NG。入ってみてもいいけど、ドアを開けただけで、たぶん嫌な顔されるよ。あと、そっちの地下の店はエリート外人がほとんど。ハーバードとかオックスフォードとか出て、仕事で日本に来てる外国人エリートが出会いを求めて集ってる」

 

歌舞伎町一番街も二丁目もおもしろかったが、ゴールデン街がいちばん水があった。
いくつかの店で飲むうちに、ゴールデン街にも「怪しい店」と「そうでない店」があることを知った。

ゴールデン街の住人とすっかり顔なじみになったみっちゃんは、ある日、わたしをほかの店に案内してくれた。いい感じにさびれたその店に入ると、カウンター席には派手なプリントシャツのアフロヘアの男性がひとり、マスターと話をしていた。みっちゃんはにこにこ笑いながら、最新映画を見たの見ないのの挨拶を交わし、カウンターの隣のテーブルを陣取った。

みっちゃんと私がジーマを注文して飲んでいると、アフロヘアの男性とマスターが、ぼそぼそと会話をしているのが聞こえてきた。
ときおり 「ニンベンさんが……」 「納期…」 「トバシノケイタイ(?)……」「ニンベンさん…」という言葉が漏れ聞こえた。

店のメニューに「店長イチオシ手打ちざるそば」があったので、わたしはそれを目ざとく見つけて言った。
「あのー、このそばつゆ、ニンベン使ってるんですか」
聞こえてきた「ニンベンさん」という言葉を、わたしは単に、店に卸しているめんつゆ会社関係者のことだと思ったのだ。

最初ふたりはキョトンとして私をみたが、すぐに言わんとすることを理解したらしく、大笑いしながら言った。

「違うよ。ナメてもらっちゃ困るな。うちのそばつゆは利尻と本枯節鰹節とざらめで、おれが手間暇かけて作ってるのよ。信州出身だからさ、そばにはうるさいの。―――ニンベンていうのは………」

 

わたしだけだったら、そこまで話してくれなかっただろう。同業者で顔みしりのみっちゃんが一緒だったから、気がゆるんだのかもしれない。それでも、「そんな仕事をしている人もいるらしいって話。ゴールデン街でよくある、根拠のない噂話だよ」と付け加えた。

ニンベンさんとは、「偽造クリエイター」の隠語である。
「偽」の字の偏をとって、ニンベンさんと呼ばれる―――。別称、ニンベン師。

 

偽造クリエイターの仕事というのは、案外需要が高いらしい。
「噂話」のわりには具体的に教えてくれたのだが、昔はテレホンカードが主流で、今は保険証、免許証、パスポート、コンサートの偽造チケット、商店街の金券、各種回数券などがあるという。アフロ男性は、ヘラヘラ笑いながら教えてくれた。

意外だったのは、偽造免許証などは、かならずしも「悪事目的」の発注に限らないということだ。
女装バーの常連客が、女性である「別の自分」を存在させたくて、自己満足で作るのはよくあることだという。本当にいろいろなニーズがあるものだ。

入手困難なコンサートチケットなどはネットで売りさばくと金額が跳ね上がるが、そればかり作っていると業界ではバカにされると、アフロ男性は陽気に笑った。

「金にはなるだろうけど、あんな誰でも作れるカンタンなもの、作ったって面白くはないだろうな。イラストレーターかフォトショップのソフトで、すぐだよ。プロの仕事じゃない……オレだって作れる」

どうやら彼らには彼らなりのプライドというものがあり、簡単に偽造できるコンサートチケットや回数券などを依頼されると、がくっとテンションがさがるという。コストパフォーマンスは悪くても、写真入りのむずかしいものは燃えるそうだ。

わたしは当時、デザイナーさんと組んで仕事をしていたので、自分のチームのデザイナーに「ニンベンさん」がいたら嫌だなぁと思い、それを聞いていた。

 

私はふと尋ねた。

「でもニセ札は無理だよね。日本のお札は精密で、暗号とかホログラムとか組み込んであるから。あんなのぜったい偽造できないよ」

するとアフロ男性は、スッと目を細めた。そのときだけは真顔だった。こめかみがピクっと動いた。
彼は熱のこもった声でゆっくり言った。
「あのな、基本的に人間が作ったもので、偽造できないものなんてないんだよ。人が作ったんだから。あとは機械と費用の問題だけだ。……作らないからといって、作れないわけじゃぁない」
彼自身の言葉のように聞こえた。

 

仕事のプライドというのは、誰にでもあるだろう。偽造クリエイターを仕事といってよいかどうか、私にはわからないが。
ただ言えるのは、あのとき彼が言った言葉は、「噂話のまた聞き」などではなく、彼自身の気持ちがこもった、命の宿った、生きた言葉としてわたしに届いたということだ。

「あのな、基本的に人間が作ったもので、偽造できないものなんてないんだよ」
「作らないからといって、作れないわけじゃぁない」

あれは彼自身の内から出た言葉だった。確かめる術はないのだが、私にはへんな確証がある。ヘラヘラ笑うのをやめた、あの強い言葉には、彼のプライドがこもっていた。

 

それ以来、私はときおり、お札をまじまじと見るようになってしまった。
もしこの1万円が「彼の仕事」だったとしたら。
いや、もし彼が手掛けたとして、「彼の仕事」だと永遠に判明しないことが、彼が仕事を完璧にやり遂げたという、たしかな証なのだが。
まさかな、と少し笑い、わたしはお札を戻しパチンと財布を閉じた。

 

現在、新宿ゴールデン街は約300の店舗が軒を連ねている。
再開発の標的になったことが幾度となくあったが、あまりにも複雑な権利関係と地回りの縄張りなどの問題から、現在のように、昔の形のまま存在し続けているのだ。
古い伝統を守る店から、スタイリッシュなテーマの若い店まで、昭和から変わらぬ木造建築の建物の中で、それぞれが独自のカラーを競い合い、ゴールデン街全体の異空間を演出し、新たなエピソードを刻み続けている―――。

石原まき子さんにお会いしたときのこと

俳優の石原裕次郎氏が生きていれば、今年80歳だという。
先日のテレビでニュースで追悼記念特集が組まれ、華々しい映像や、早世を惜しむファンの声が放送されていた。

番組の後半、奥様である石原まき子夫人もインタビューに答えていた。
「私の中では時間が止まったままなんです。80歳の裕さんなんて、想像できませんものね。私にとっての裕さんはまだ52歳の姿のまま。ずっと生き続けてているんですよ」
穏やかに上品に語るまき子夫人を見て、私はテレビに釘付けになってしまった。

何を隠そう、私はまき子夫人とお会いして、会話を交わしたことがある。

お会いしたとき、私は彼女が石原裕次郎氏の奥様だとは知らなかった。出会った場所は百貨店。シチュエーションは、販売員と常連客。

私はわずか1年半ではあるが、百貨店の高級時計・宝飾売り場で販売員をしていたことがある。
そこにある日、まき子夫人がお客様として訪れたのだ。
まき子夫人は「外商顧客(いわゆる上客)」であり、百貨店にとっては特別のお客様だった。

私はまったくご本人を存じ上げず、一般のお客様と同じように、のん気に「いらっしゃいませ~」と笑顔で近づき、時計の説明をし始めた。
まき子夫人が他の海外ブランドの時計もご覧になりたいとおっしゃるので、私がフェンディのケースにご案内していた途中で、ほかのスタッフが気づき、すっ飛んで来た。そしてまき子夫人をかっさらってご案内を引き継いだのだった。

まき子夫人の周りには、あれよあれよという間に、百貨店のお偉いさんとベテランスタッフで人だかりが出来た。
時計・宝飾売り場というのは年配の女性が多く、当時三十代後半の私でさえ、一番若い部類のスタッフだった。
しかも入社1年たらずの新人では、ベテラン販売員の先輩方に近づけるはずもなく、60代70代のお局スタッフにブロックされた私は、なすすべもなく、遠巻きにぽつんと、黒山の人だかりに囲まれたまき子夫人を見守っていた。

まき子夫人は結局、国産の時計と、フェンディの時計をプレゼントとして購入されたのだが、私が彼女を「ただものではない」と感じたのは、彼女の気遣い、気配りの素晴らしさだった。
まき子夫人は、購入する時計が決まった途端、しきりに最初ご案内した私のことを気にかけ、周囲にアピールをしてくださったのだ。

「あのね、あそこにいらっしゃる方(私のこと)が、最初にご案内してくれた時計なんですよ。ほら、あそこに離れて立っていらっしゃるでしょ、あの彼女が、私にこの時計を最初に紹介してくださったの」
まき子夫人は、一生懸命、周囲のスタッフに私の存在を説明した。

まき子夫人はおそらく、知っていたのではないかと思う。
時計・宝飾売り場において、販売した品物の点数や価格が、販売員の成績としてカウントされるということを。

どのようにして知ったのかは定かでない。
まき子夫人ご自身も、「北原三枝」のお名前で、女優として早くから活躍されていたことを鑑みるに、一般の販売業務事情に精通していたとは思えない。それを斟酌できるということは、なみなみならぬ周囲への細やかな洞察力、異なる立場の他人への想像力、そして「裕次郎の妻」として恥ずかしくないよう自己への戒めであろうか。

私のような末端の人間に、ここまでの気遣いを見せるまき子夫人の人格の素晴らしさを思うたび、私は自分の小ささに身の縮む思いがする。

私は世代的に、俳優・石原裕次郎を知らないが、彼が生涯の伴侶に選んだまき子夫人という女性を通して、裕次郎氏がどれほど素晴らしい男性だったか分かる気がする。
日本中を熱狂させたのは、単なるルックスや演技力、センスだけではなかったはずだ。男性としての器の大きさ、温かさ、気配り、優しさ、繊細さ、大らかさ、それらをひしひしと感じるのである。

まき子夫人にとっては、自然に身についた、通常の気遣いをしただけなのだろう。
しかし私はこの出来事を、要所要所で、案外人生の拠り所にしていることに、最近気づいた。
自分の心がすさんでどうしようもなくなったとき、ぐっと腹に力を入れて、まき子夫人のサングラスの奥の、上品で慈愛あふれる瞳を思い出す。
まき子夫人の愛情、思いやり、気遣いを心の糧にして、ささくれだった心を、なめらかに穏やかにリセットするのだ。

先日テレビでインタビューに答えていたまき子夫人は、変わらず美しかった。どんなに年齢を重ねても、彼女は永遠に美しい人である。
その「人」としての輝きは、裕次郎氏のところに行くまで、決して衰えることはないだろう。

 

 

 

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「張りプロ」の仕事

「いいの、あれがあいつの仕事」

タウンワークのCMである。居酒屋で客相手に楽しそうにおしゃべりをし、油を売るスタッフに、まじめに汗して働く社員が注意しようとすると、上司にこう言われてとめられる。最後に「その経験は味方だ」とテロップが出る。

もう何年も前になるが、一度だけ「伝説の張り師」に会ったことがある。賭博を生業とする、いわゆる「張りプロ」だ。

本当か否か定かではない。広告デザイナーの友人に誘われ、新宿界隈の老舗バーで飲んでいたときに、元男性のバーのママが、店の常連である私の友人に、こっそり耳打ちしてくれたのだ。カウンターの隣に座っていた初老の男性は、普通の白いシャツを着て、細身で小柄、頭髪はすでに半分以上は白く変わっていた。おそらくギムレットだと思うが、しゃれた薄い足高のグラスでカクテルを飲んでいた。

その男性は、奥に座る私の友人をちらりと見た後、つぎにちらりと私の手元を見た。私はパチンコを含め、競馬、競輪、競艇、賭け事を一切やらない家庭に育ったので、博打の疎さには自信がある。パチンコのやり方も馬券の買い方も知らない。「張りプロ」といわれても、共通の話題はどこにもない。

何を話してよいかわからず、ちびちびハイボールを飲んでいたら、その張りプロは正面を向いたまま、ぼそりと言った。
「あんた、勤め人は無理だよ」

うすうす自分でも向かないとは感じていたが、それでもまだ諦めずに組織で働いていた頃である。自分は一応勤め人だと告げると、彼はまた言った。

「長くは無理だよ。手が俺とおんなじだもの」
そうだろうか。私が改めて自分の手をまじまじと見ていると、張りプロは今度は、少し大きい声ではっきり言った。

「指だよ。あんたは人差し指と中指が外に向いているだろう。へそ曲がり、つむじ曲がりの人間の手だよ。人差し指は人を見る指。中指は自分自身。どっちも外を向いてる。こういう人間は組織に迎合しないでわが道を行く。アウトサイダーで、才能と勘を頼りにハッタリで生きるのがいいんだ。博打うちの人生だ」

自分でも気づかなかったが、たしかに人差し指と中指だけ外を向いていた。「つむじ曲り」という言葉にも思い当たるところがあった。

そういえば私はつむじがふたつある。どちらも変な位置で、ひとつは左額の生え際、もうひとつは後頭部の右端という、美容師泣かせのダブルつむじなのだ。つむじ曲がりという点では当たっているかもしれない。そう告白したら、男性はクールな顔を崩し、ヒッヒッとひきつりながら、うつむいて肩で笑った。
「俺もだよ。位置が逆だけど」

店のカウンター傍らのミニテーブルには、イベント用のおもちゃのルーレットが置いてあった。どこが本物と違うのか判別はできないが、映画などで見るものと比べ、ずいぶん小ぶりでちゃちな仕様だったと思う。何より、裏カジノでもない普通のバーに、本物がないことくらいは、素人の私でもわかった。

 

男性の言うように、本当に私に博打の才能があるのだろうか。
私はルーレットをいじってもいいかママに尋ね、席を立って傍らのルーレットをえいっと廻して雑に玉を放り込んだ。
「赤34」
テキトウに言い捨てて止まるのを待つと、玉はコンコンとはねて、まったく違う番号の黒ナンバーに落ちた。カウンターの友人が緩く笑った。私も笑ってカウンターに戻ろうとすると、男性は引き留めた。
「あと二回、廻してみな」

言われるまま素直に二度廻し、その都度あてずっぽうのナンバーを言うのだが、どれひとつとして当たらない。ほらみろと、今度こそカウンターに戻ろうとしたら、男性は言った。
「今度は俺の番だ。もう分かったから廻してみな」

さきほどと同じようにえいっと廻すと、男性は今までの、対象物をちらりと見る目つきを一変させて、鷹のような目でルーレットを凝視した。盤は赤黒ミックスカラー織り交ぜくるくると、駒のように回転している。
「黒17」
男性が今までで一番高い声を出した。まだ盤はかなりの速度で回転していた。しばらくしてから赤と黒のカラーが分離し、それぞれの領域を見せ始めた。ポンポンと軽快にはねて収まったのは、黒17だった。

後で知ったのだが、ルーレットは確率と統計の綿密な分析で当てを予測するらしい。玉のスピードを分析する周回張りという手法だ。ウィールの回転速度と玉の速さ、加えて廻すディーラーのクセや力配分などもすべて考慮して、瞬時に計算式をつくるという。だから慣れた賭場の慣れたウィール、顔なじみのディーラーであればあるほど当てやすい。クセと力加減を知り尽くしているからだ。

それを三回見ただけで正解を導き出すのは、まさに神業。後に、博打にくわしい知人はそう感嘆した。
もしママや男性本人が廻したのなら、店ぐるみのよくできたマジック、客を喜ばせるサービスだろうで終わったかもしれない。しかし私自身で廻し、玉を放り込むタイミングも私が決めたので、イカサマではなかったと思う。

「めずらしいわね。おもちゃ相手になんかしたら、博打の神様が逃げていくって、いつもやってくれないじゃない」
ママが驚いたように言った。

「違うよ。博打の神様への貢献だ。この人、俺とおなじ手だからな。博打人生に引き込むスカウトのパフォーマンスしてやったんだ。逆にツキをくれるってもんだろ。」
男性は片頬で笑い、カクテルを飲み乾した。

「でもな、なまじバク才(博打の才能)なんてものは、ないほうがいいよ。命取りだ。勝てば金にはなるが、保証はない。勝ち続けりゃ裏の業界からスカウトがくる。どっちかのシマで勝てば、次の賭場には出ないよう脅しがくる。危なくて家族も持てやしない。」

ママが笑った。
「この人ね、理系の一流大学出てて頭いいの。それで〇〇商事(一流大企業)に勤めたのに辞めちゃって。頭がいいから大企業になんか、バカバカしくていられないのね。それでこの世界で30年よ。私だったら絶対ムリ。明日もわからない、神経すり減らす博打稼業でずっと生きていくなんて」
男性の、話すときに片側の頬がひきつる、ストレス性のチックが気になっていた。この世界で生きていくために常に気を張り、緊張しているのかもしれない。

やはり店ぐるみのジョークではなかったと悟ったのは、男性を迎えにきた人物を見てからだ。

「やっぱりここか。ちょっといいかい。次の仕事のこと」
男性は周りをチラとみて、場所を変えよう、と二人で出ていった。迎えに来た男は、夏場に似つかわしくない黒い手袋をはめていたのだが、その小指は中身を収めず、ぐにゃりと所在なく揺れていた。

 

仕事もいろいろあると思うが、上記は一風変わった仕事のはなしである。
ちなみに私の周りの親しい友人は、フリーランスや役者、クリエイティブ系に身を置く人が多く、決まった場所できっちり八時間働く勤め人が極端に少ない。それでも皆、自らの才能や個性を発揮し、よい仕事をしている。

はたらくというのは、組織に籍を置くことではない。ダイバーシティというと一気に今風の言葉になるが、大切なのは多様性だ。自分の資質を最大限に生かし、自分自身を燃料にして発火できる道を選ぶことなのだ。組織にいて完全燃焼が実現できるなら、もちろんそれも正解だ。

その後私は、大企業と呼ばれる会社も含めいくつか正社員になったのだが、居心地悪くてつぎつぎ辞めた。最短は4日。張りプロは経験値30年の値踏みで、私の資質を一発で見抜いた。やはり彼はプロ中のプロだったのだ。

「いいの、あれがあいつの仕事」。

たとえアンダーグラウンドを歩いたとしても、そう認められ、結果で周囲を納得させられる、自分の仕事ができればいい。私は今、いくつめかの会社を辞め、フリーランスで生きていく博打人生の第一歩を踏み出した。
「その経験は味方だ」。その通り。切り売りできる経験だけは、ストックいっぱい用意した。私に怖いものはない。

 

「張りプロ」はある意味、博打界に貢献したといえるだろう。博打の神様が忘れているならば、ひとつ私に免じて、彼に大きなツキを与えてあげてほしい。

政治の色

「色事」「色気」「色っぽい」という言葉のとおり、セクシュアルなものには「色」がある。
しかし、死の世界には色がない。死は「白と黒」と相場が決まっている。喪服は黒。葬式場の鯨幕も、もちろん白黒。

今年の二月にはいり、約18年間連れ添った猫を亡くした。火葬場で焼いてもらい、焼きあがった骨を自ら拾った。
火葬場のご主人は、この道十年のベテラン。さまざまな動物の遺骨を見てきた骨と灰のスペシャリストだ。彼が、うちの猫の焼き場の釜を開けたときにこう言った。
「ああ、お腹のあたりに少し緑色っぽいものがありますね。あれは薬か何かでしょう。直前まで、薬を飲ませていませんでしたか?」

その通りであった。

「生き物が焼きあがった後に残るもの……、自然物の骨と灰というのは、基本的には白と黒だけなんですよ。他の色が混じっているのは、投薬とか注射とか、科学的な、何か別の混じり物がある証拠です。頭蓋骨の左目のあたり、白い骨にうっすら黒を帯びているでしょう? あれは左目が少し、白内障気味だったのかもしれませんね。焼きあがった骨を見れば、いろいろなことが分かるんです」

死の世界は白と黒。
なんだ、やっぱりそう出来ているのか。
昔からの慣習も、鯨幕も、物理的な理由と合致していたのだ。

都議会で女性議員が発言中、「結婚したほうがいいんじゃないか」というセクハラ野次がとび、問題になった。今日は発言者が明らかになり、テレビでの謝罪会見がにぎわしい。

私は件の女性議員のプロフィールについて、あまり知識がなかったのだが、「グラビアをやっていたのだから仕方ない」「タレント活動で、自らが女性としてのキャラを売りものにしているのに、過敏に反応しすぎ」などの声を聞き、改めて彼女の経歴を知った。

私は基本的に、「○○だから」セクハラが許容されるということはないと思っている。グラビアをしていようが、ホステスであろうがキャバ嬢であろうが、セクハラも痴漢もしてよいという理由にはならない。
女性の人権と尊厳という点では、同一に守られるべきだ。グラビアをしている女性がすべて、性的に軽視される本質を備えているとも限らないし、軽視してよいはずもない。

そこをふまえたうえで、平行して感じたのは、「世間のフィルター」という色を通して見られる覚悟は必要だということである。

本質が赤であれ、「世間」「職歴」という青いフィルターを通して見たときに、その見え方は紫に変化することもある。事実は赤だ。しかし、私たちはさまざまな視点や価値観にさらされて生きている。
グラビアアイドルへのセクハラ発言と、ハーバード卒の女性キャリア官僚へのセクハラ発言とでは、扱われかたが違うのは否めない。
「性」というものを、ある程度商品化する職業を、自らが選択した以上、フィルターを通したときに外部からどう見られるか、どのような色に変化するか、予測し見極める、その覚悟は必要なのだ。

覚悟という言葉が適切でないなら、「知恵」とでも言おうか。そのような知恵をもって、自らの意思で選ぶほうが、自分自身でも傷つかない。大人の自己責任だと納得もできるだろう。

「死」の世界には色がなくとも、「市」の世界には色事があった。いや、「都」か。

いずれにしても、最も必要ないところに湧き上がったセクシュアル発言は、健全な政治にケミカルな不純物が混ざったような、嫌な色のシミを、私の心に残してくれた。

 

仕事の炎

人間力と共感力の重要性を日々啓蒙している私であるが、壮絶なプロ意識の前で、それらがかすむこともある。
 
火事を近くで見たことのある人はどのくらいいるだろうか。
私は小学校低学年の頃、かなり近くで火事を見た。
空は茜色に染まり、黒い煙がもうもうと立ち上り、木造の二階の窓からは、生き物の赤い舌のような炎がネロネロと噴き出していたから、かなり大規模な火事だったのだろう。実際に見たのは、家族で移動していた車の中からだったので、その場に留まり見物はしなかった。
 
後車に押されるままゆっくりと現場を通過したのだが、そのときに信じがたい光景を見た。大きいカンバスを抱え、布のバッグを襷掛けに、下駄に裸足で駆けつけた絵描きの姿である。
四十代半ばといったところだったろうか。初老というには、まだ面差しは若かった気がする。慌てて無造作にバッグに差し込んだと思える絵の具やらパステルが、ばらばらと道端に落ちるのも厭わず、その男性は鬼のような形相で火事を描写し始めた。
炎に照らされて明々と照らされた顔、爛々と輝いたあの目は、今も忘れられない。
 
後から聞きかじった話だが、その男性はちょっと知られた画家であったらしい。今は名前も忘れてしまったが、しばらくしてその人の個展が市内で開かれるのを知った。図書館や公共施設のカウンターに置いてあったチラシを、人が持っていくのを見るたび、私はヒヤッとした。
もし火事の被害者がその絵の存在を知り、見てしまったら、憤ったりしないだろうか、「他人の不幸を食いものにして!」と、会場に怒鳴り込んできたらどうするのだろうか、など、子供心に余計な心配をした。
後で考えてみたら、私はその絵を見たこともないし、完成されたか否かも知らないのだった。
 
 
芥川龍之介の「地獄変」を読んだことのある人は多いと思う。
平安時代、良秀という絵仏師がいた。高慢ちきで嫌われていたが、腕前は天下一で、その名は都じゅうに轟いていた。この良秀には娘がいたのだが、親に似ずやさしくかわいらしい娘で、当時権勢を誇っていた堀川の大殿に見初められて、女御として屋敷に上がった。娘を溺愛していた良秀は、娘を返すようたびたび大殿に言上しては、心証を悪くしていたのだった。一方、良秀の娘も、大殿の恋情を頑なに拒んでいた。そんな時、良秀は大殿から「地獄変」の屏風絵を描くよう命じられる。良秀は真の芸術作に仕上げるために、手本として、燃え上がる牛車の中で焼け死ぬ女房の姿を見たいと大殿に告げる。大殿は、異様な笑みを浮かべつつその申し出を受け入れる。
当日、車に閉じ込められ火をつけられたのは、良秀の娘であった。しかし彼は嘆くでも怒るでもなく、陶酔しつつ成り行きを見届ける。娘が悶え焼け死ぬ様を、父である良秀は、芸術家としてただ厳かな表情で眺めていた。娘の火刑を命じた殿すら、絵師良秀の異常な執念に圧倒され、青ざめるばかりであった。
やがて良秀は見事な地獄変の屏風を描き終え、絵を献上した数日後、部屋で縊死する。
 
至上の芸術性を追及し、納得ゆく完璧な仕事をするためには犠牲をもいとわないという姿勢が、常人の一線を越えてしまった話である。
私はこの本を読んだとき、幼いときに見た火事の画家のことを思い出した。もし問いただせば、良秀もあの画家も、「これが自分の仕事だから」と胸を張って答えるのだろうか。
 
 
 
同じく火を描いた画家で、高島野十郎という人物がいる。
東京帝国大学の水産学科を首席で卒業するほどの秀才で将来を嘱望されていたが、卒業時の銀時計を拝辞してまで、突如画壇に進んだ。
彼は淡い蝋燭の炎や月光の連作を好んで描いた。
数年前に三鷹で開かれた個展に行ったが、現物の美しさと透明感にため息が出た。
 
野十郎は世俗との接触を拒み、山中のあばら家にたった一人で住み続けた。6坪ほどの朽ち果てた茅葺の小屋はトタンや板でつぎはぎされ、風雨もろくに凌げなかったという。水は井戸を掘り、粗末な七輪で自炊をし、ランプの明かりを頼りにひたすら描いた。
ただただ毎日自然と対峙してそれを写しとる毎日。彼は地位も名誉も名声も求めなかった。
野十郎が85歳のとき、もはや立つこともできなくなったのを見かねて、村の人たちが老人ホームに連れて行こうとしたところ、野十郎は激しく抵抗して小屋の柱にしがみついて離れず、村人たちは指を一本一本はがして無理やり搬送したという。
 
高島野十郎の描く蝋燭の炎も月光も、高潔にして清涼。自然のもつ侵しがたい気品。これほど澄み切った自然の美を写し取れる画家を、私はほかに知らない。
もはや彼の場合は、仕事を超えた「魂の使命」に突き動かされて描いていたのであり、彼の作品に金銭は介入していなかった。その生き様と美意識は、痛いほど作品に顕れている。
 
 
卑近な例で恐縮だが、「世の全体向上のために、他人のために仕事をしていれば、金銭は後からついてくる」という考えをモットーに、「愛情力と共感力」「ハラスメントゼロ活動」をライフワークにした自分であるが、それでも生活への焦燥感は、少なからずある。
もちろん野十郎とはジャンルが違うが、それでも彼の潔さに追いつかない自分が、もどかしい夜もある。
 
芸術性と仕事の境界や、モラルの正誤についてここで述べることは難しい。
しかし自然の美に身をささげて朽ち果てた野十郎や、かつて目にしたあの火事場の画家のように、すべてを捨てて自分の魂の赴くままに心の炎を燃やしたことがあっただろうかと、時折思い悩むのだ。
ばらばらとこぼれ落ちる絵の具をものともせずに、突っかけた下駄を高らかに鳴らし、丸首のくたびれたシャツ1枚で人目も気にせず火事の人だかりに飛び込んだ、あの画家の目に宿った炎は、正論などでは消せない、強い情熱の火が宿っていた。
 
 
趣味でも専門でも、いろいろな物に目移りしてはすぐに放り出す、飽きっぽい自分の性分にずっと嫌気がさしてきた。我を忘れるほどの仕事に出会えた彼らを、今私は、うらやましさすら感じるのだ。

キラキラさん

他者と自分の見ている風景、得ている感覚は違うかもしれない。
音楽的才能のない自分としては、絶対音感を持つ人の音の感じ方を、体験してみたくて仕方がない。

音楽が実際に色として見えるという「共感覚者」の世界などは、もはや未知の領域だ。共感覚者には、「ド」は「赤」、「ミ」は「青」など、本人の中で配色が決まっており、色で音を判断し演奏するというが、その世界はいかなるものなのか。
楽譜を開くとそれぞれの音符が色であふれ出す世界。
「赤とオレンジが多くてまぶしい曲」という表現は、彼らにとっては決して比喩ではないのだ。

最近私がじわじわと広めている「共感力」。
要するに他者への思いやりである。じつは私がこれらを意識し始めたのはかなり昔で、小学校低学年にまで遡る。

小学校の頃、近所に住んでいた友達、春ちゃんの弟キクオ君は、知能発達障害だった。
キクオ君は、まるで生後一週間の子猫のように、ピュアでかわいらしい目をしていた。お母さんのスカートの後ろに隠れて、指をくわえてじっと私を見つめる澄んだ目の印象を、今もはっきりと覚えている。
現在なら、アスペルガーや自閉症スペクトラムなど、分類や定義があるのかもしれないが、当時は単に「少し知能の発達が遅れている児童」という位置づけだったように思う。

キクオ君は養護学級に通っていたのだが、自分の興味あることに対する記憶力は飛びぬけて高かった。毎朝、学校の駐車場で先生たちの車をチェックするのがキクオ君の日課。
「わ、わたなべ先生、日産スカイラインクーペ・ケンメリL28公認ミクニクーペ フロア5MT 白、群 さ 35 89×△、え、えみこ先生、トヨタヴィッツ・1.3 U Dパッケージ ビューティフルセレクション、群 あ 12 0△33、こ、こうちょう先生、マツダデミオ・1.3 カジュアルハッチバック フロア4AT 青、群 け 50 29○×、……つ、つ、つよし先生、ない。つよし先生、いない。つよし先生、まだきてない。つよし先生いない、つよし先生いない、つよし先生いない……」
といった感じである。教員と学校職員数十名車種とナンバーを、完全に把握していた。

私が田んぼ脇の水路で、おたまじゃくしをバシャバシャ乱獲していると、キクオ君は脇に来てこう言った。
「お、おたまじゃくしね、かゆいんだって。あしが出るとき、かゆいって」
そろそろカエルに変化する時期のおたまじゃくしたち。後ろ足の出る丸いボディの付け根あたりが、成長してきた足でぷっくりふくらんでいた。

そのキクオ君が、ときどき人間に対してこう表現していた。
「あ、あのひとはキラキラさんがおおいいひと。あ、あ、あの人はすくないひと。すくないのはこわいひと。さむいひと。あれはすごくすくないひと。こわいよ~」
「キクオ君、キラキラさんて何?」
「キ、キラキラさんはキラキラさん。つぶつぶ? キラキラしてる」

キクオ君から聞き出した単語をつなぎあわせると、人間には光のようにキラキラとした粒子が、その人を取り巻くか発するかしており、その光量は人によって違うということだ。
キクオ君が怖がったのは、当選を果たしたばかりの新人議員であった。地元の活性化とクリーンな政治を情熱的に主張している、ガッツポーズ姿のポスターの顔は、さわやかに微笑んでいた。

「キラキラさんすごい人は、キラキラで顔も見えないことある」
「でも、顔が見えなかったら、困らない?」
「キ、キラキラのりょう、りょうとかんじでわかるから、だ、だいじょぶ。よ、よしこおばさん、むかしよりキラキラさんふえた」

キクオ君のはす向かいに住んでいたよしこさんという女性は、ご主人が不動産関係の仕事で何不自由ない暮らしをしていたのだが、社員に会社の金を持ち逃げされて会社が倒産し、ショックから自身も体を壊し、ずっと伏せっていたのだった。しかしその後一念発起して、経験の無いホウレンソウ農業をはじめ、朝から晩まで毎日、泥んこになって働いていた。
苦労を知って、他人への優しさ・愛情が増したということだろうか。
彼女の魂がキラキラ輝くのを、キクオ君は見逃さなかった。

 

後日談だが、よしこおばさんはのちに成功し、豪邸を建てるまでになる。それは地元で「ホンレンソウ御殿」と呼ばれた。

春ちゃんともキクオ君とも、25年以上会っていない。
先日母親が電話で、私が結婚していないことをひとしきり愚痴った後で、春ちゃんのことを話題に出した。
「そうそう、この前春ちゃんのお母さんに会ってね。春ちゃんもまだ、結婚してないのよ」と。
春ちゃんは薬科大学に行き薬剤師になったということだが、キクオ君のことは何も触れなかった。

キクオ君の見える今の世界は、昔よりもキラキラさんのあふれる、輝かしいまぶしい世界になっているのだろうか。
キクオ君のあの澄んだ目に映る景色が、いつも美しいものであることを望んでやまない。

 

(有馬珠子のあめぶろ)
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田中要次さんと共演したときのこと

ここ2~3年、秋口から初冬にかけて、スギ花粉のようなアレルギー症状が出ている。この時期のアレルギーはブタクサだとか蛾の鱗粉だとかいうが、原因は不明だ。検査すれば反応要素が分かるらしいが、面倒なのでもっぱらアレルギー止めの内服薬で乗り切っている。しかし薬が切れたときは鼻水と涙がとまらず、本当に困った。

「涙がとまらない」状況になって、ふいに昔のことを思い出した。
そういえば私はむかし、映画出演を依頼されたことがある。そのときのキャストが、「涙が止まらないOL」の役。(当時のまま「OL」という言葉をつかう)

役者を目指したことなどまったくない。
しかしなぜだか、当時勤めていた書店内で、客として通っていた監督からスカウトされたのだ。

 

それだけだとあきらかに胡散臭い話なのだが、監督は自分から声をかけてきたわけではない。以前からホンに合う役柄として私に目をつけていたが、さすがに店内で自分から声をかけたら「あやしまれる」と思ったらしく、いろいろと下準備をして、最初に女性マネージャーをよこした。
彼女は私に、監督のプロフや仕事実績、そして映画の脚本などを渡して帰った。

監督の仕事実績の中には、当時よく流れていた、誰でも知っているタレントを起用したコマーシャルやシリーズものの短編映画などがあり、きちんとしたお仕事をされている方だとわかった。実際過去には、コマーシャル部門か短編部門かでカンヌ金賞を受賞したことのある実力派。これから作成するという映画も、決して妙な映画ではないことは、脚本からも容易に理解できた。

私の役どころ「涙の止まらないOL」は、主人公の同僚。ごく普通に会社勤めをしている女性だが、なぜだか涙が止まらないのだ。仕事で電話を受けていても喫茶店で雑談しながら笑っていても、つねに涙がしたたり落ちている。

一般受けうする軽い作品ではない。
かなり芸術性の高い、頽廃とコンテンポラリーアートの融合ともいえる、不思議なニュアンスをもつ、アンダーグラウンド的な作品を作れるアーティストだ。
制作予定の映画も、テレビ商業用ではなく、カンヌ国際映画祭短編出展用ということを聞き、興味本位で引き受けた。

 

おかげで普段はふれることのない業界を覗くことができた。
舞台とは違い、コマ割りで撮っていく映画の組み立て式の制作方法。ひとりでぽつんと映っている寂しい画面すら、周りには何十人もの人間が動き控えていること。そしてそれぞれの立場やメリットデメリットはまったく違うことなども、当然といえば当然なのだが、体験を通して実感した。
「ひとつの企画」の裏に、どれだけの数の人が動くかを意識しながら仕事するようになったのは、このときを契機としてだったと思う。

共演者は、劇団東京乾電池の女優さんと、当時はまだそれほど名前が表に出ていなかったが、今や押しも押される実力派俳優の、田中要次さんだった。

 

田中要次さんは、元国鉄職員から俳優へと、異業種転職した経歴の持ち主だ。
先日亡くなられた高倉健さん主演の「ポッポや」炭鉱夫役や、NHKドラマ「あまちゃん」の医師役、ドラマ「HERO」の、「あるよ」でおなじみのマッチョでしぶいバーのマスターなど、代表作は枚挙にいとまがない。
私が共演したのはもう15年以上前だと思うが、今も通り名になっている「BoBA(ボバ)さん」というあだ名は、当時すでに使われていた。
私が「なんでボバさんなんですか?」と聞くと、「ボンヤリバカだから?」と、はにかんだ笑顔を見せた。

現場では「いかにも業界人」という方もちらほらいたが、ボバさんは当時から口数少なく、時間通りにきっちりと現場に入り、黙々と仕事をして帰る、寡黙で実直な印象の役者さんだった。もと公務員といわれると「なるほど」と思う。

寡黙だが、優しい人だった。
バナナを食べるシーンではカット後、鼻の下をのばしてゴリラの顔芸をして、素人である私をなごませて笑わせてくれた。言葉ではなく態度での気遣いを、ちらちらと見せてサポートしてくれた。彼が現場にいるとなぜかほっとした。
お互い猫好きだったので、撮影の合間に猫自慢をしあった。今でも猫雑誌に「猫好き有名人」として掲載されているのを見るたび、「よしよし、まだちゃんと猫好きだな」と、私は一人でにやりとしている。

 

今ほどに名前が売れていなかったにしても、彼の演技力は確実だった。劇団の女優さんや脇役陣もそう。それなのになぜ監督は、演技の「え」の字も知らないような素人の私に、あの役をやらせたのか。
私は当時、「普通のOL役」のために自分が声をかけられたと思っていた。
監督のまわりには、抜群にスタイルのよいモデルさんや演技のうまい役者さん、目を見張るような美しい女優たちがたくさんいたはずだ。だからこそ普通のOL役として、私のような人間に声をかけたのだろうと、そのときは考えた。

しかし今思うと、監督は別のフィルターを通して人選したのかもしれない。
なぜならば、当時わたしは泣いていた。

 

私が勤めていた会社は、書店としてはおそらく日本一。流行の発信源もわかるし新刊もいち早く目を通せる。営業版元さんとの交流の中で、出版業界にふれることもできる。本好きな私にとっては楽しかった。
自分の担当棚に関しては決定権を与えられていたし、新人のわりには信用され、やりがいのある仕事を任されていたと思う。
新聞の書評をチェックし、「いけそうだ」と思う書籍にあたりをつけて大量入荷する。うまい具合にヒットすると嬉しかった。返品処理した本が、その直後に新聞で話題になったことを知り、慌てて委託業者に駆け込み、平身低頭、戻してもらったこともある。

あるいは名もない地方の弱小出版社の、しかし手間ひまかけて作られた良質な本を自分の判断で仕入れ、POPをつけてイチオシで平積みにすると、反応があり販売部数がのびる。そのようなときは、「良い仕事をしたな」と満足感を得られた。

周囲の同僚も上司も、いい人たちばかりだった。
おそろいの制服には辟易したが、社食のうどんみたいなミートソーススパゲッティも、給食を思い出して好きだったし、ときどきメニューに登場する、社食オリジナルの180円の手づくりかぼちゃプリンも大好物だった。未だにあそこより美味しいかぼちゃプリンに出会っていない。
コーヒー通の同僚が、美味しいコーヒーを淹れてポットで持参し、社食のお茶碗で少しずつ皆に振る舞ってくれる。それを食後に飲むのも楽しみだった。

何より同僚たちと他愛のない話で盛り上がり、1時間を過ぎて上司の目を気にしながら慌て売り場に戻る。今思えばあまりに普通の、そして今では普通に手に入らない、貴重な時間だった。
給料はすごく良いとはいえなかったが、私のような世間知らずを置いてくれるには、ぜいたくすぎる、分相応な会社と待遇だったと思う。

 

それでも私は毎日、何かが足りなかった。
欠乏する心の収まりどころはどこにも見つからず、押さえつけても押さえつけてもなお吹き零れる、焦燥感と目的の見定まらない欲求に必死でふたをして、あふれたもので火が消えてしまう直前に、ギリギリになってから慌ててふたを取る。その繰り返しの日々。
ある日レジで書籍用カバーを折っていたとき、外国人のお客様から「ツマラナソウ」と言われ、けげんな表情で顔を覗きこまれ、ハッとした。取り繕った笑顔で本を受け取ったが、動悸はとまらなかった。

 

監督は、そのときの私の心の欠片を見抜いたのかもしれない。
彼のアーティスト欲求が、ひとりの人間の心の表面張力を、葛藤の瞬間を切り取ることを駆り立てたのだろうかと、今になって思うのだ。

毎日楽しく働いていると自分に言い聞かせてはいても、なお乾き餓(かつ)えてもがき、泣いている私の内面を。だからこそ「涙のとまらないOL」を抜擢したとしたら、まさにナイスキャスティングといえるだろう。何より彼は鬼才であった。

映画は無事クランクアップした。
その後監督には、CMに誘われた。「ちょうど胃腸薬のCMがきてるよ。ワンクールで30万円くらいにはなるから、出てみない?」
そう声をかけていただいたが、丁重にお断りした。中途半端な気持ちと才能でやれる甘い仕事ではないということは、一本出れば、嫌というほどわかったからだ。

そしてその後しばらくして私は退職し、フリーランスに片足を突っ込みながら、それこそいろいろな世界を覗き見ることとなる。
安定はなかった。それでも組織に庇護されて楽に暮らしていたあの頃より、いくぶん心はマシになっていた。

 

そんな私とは裏腹に、田中要次さんはその後、破竹の勢いで役者道をのぼりつめた。
私は現在労働問題にかかわっているが、「異業種転職の成功例」というと、真っ先にボバさんを思い浮かべる。人生のほんの一瞬を、映画業界を通してふれあった彼のことを。

「成功例」とはいっても、決して平坦な道ではなかったはずだ。いろいろなジャンルのそれぞれ違った役を、職人のように地道にこなし、ひとつひとつ丁寧に実績を積み重ねていったことは、彼の出演作品一覧から伺える。
スタッフとの方向性の違いや、思い通りにならなかった自らの演技に人知れず泣いた夜は、もしかしたらあったのかもしれない。
しかし15年前のあのとき、彼は少なくとも私のように、心は泣いていなかった。

一緒にいて感じたあの安心感は、人柄はもちろんのこと、紆余曲折の末ゴールが定まった、覚悟を決めた人間の安定感だったのではなかろうか。
いつかテレビで、北野武さんが言っていた。
「やりたいことの見つかった人間ていうのが、一番幸せだよ」と。

行き先がわからず、夜空の星の見方も知らず、ただやみくもに泣きながら砂漠をさ迷い歩いていた私とはちがい、彼にはもうオアシスが見えていた。目的地へ向かう覚悟もあった。安定した公務員から保証のない業界へとジャンプし、そこで根を張り生きていくという覚悟。そして自分の才能を信じて進む意志。結果として、それらが彼を今の地位へと導いた。

 

先日近所のデパートで、昔の私のように、「ツマラナソウ」な顔をして仕事している販売員を見た。どのような仕事も、楽しいことばかりではない。ただのわがままで、目的もなく転職するなら、現状維持のほうが良い場合もある。
しかしもし、奥底にある心が彷徨い泣いてもがくのならば、そこは本来自分のいる場所ではないのかもしれない。

「別の生き方はあるのでしょうか」

悩む人が不安でそう問うのなら、私はボバさんのあの渋い声色を真似て、「あるよ」 といつも、言ってあげたい。
彼の持つ安定感には、まだ随分と足りていないかもしれないが。

 

 

(有馬珠子のあめぶろ)
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気配りのある仕事はよい仕事

池波正太郎の「男の作法」という本を知っているだろうか。作法について、結構うるさく細かく、書かれている。

「イチゲンの寿司屋に行くときは、常連さんに遠慮して、カウンターでなくテーブル席で一人前を頼む」
「トロはもとが高いから店の利益はあまり出ない。だからふたつめを頼むときは『もうひとつ食べたいんだけどいいかね』と、ひとこと断る」
「てんぷらはすぐに食べないと、店の主人が油の加減を待たなくてはならない。だから、おしゃべりなんかしてないで、揚げるそばからかぶりつくように次々食べる」

「うるさいよ。せっかくの楽しい外食なのに気が張る」 と思われるだろうか。
それもわかる。そうかもしれない。
しかし氏の言わんとすることは、「気配り、思いやり、相手の立場に立つ大切さ」なのかと思い、見方を変えて読むようにした。

 

「気配り」という点で、ふと思い出したエピソードがある。

わたしの父親は、地元企業の代表取締役を務めた。
社長になったのは私が大学に入り家を出た後だったので、子供の頃は、まったく普通のサラリーマン家庭だったが。

その父が、数年前に会社の慰安旅行で温泉旅館に泊まったときのこと。
料理も酒もひととおり出尽くし、やれ宴もお開きという頃合で、それぞれが重い腰をあげて部屋に戻ろうとしたその時。
給仕を補佐していた女将が、封を切ったばかりでたっぷりと残っているウイスキーのビンを、さっと紙で包み、父に押し付けたそうだ。
「大切な会社のお金で飲まれているお酒でしょう。どうぞお持ち帰りください」と。

酒飲みであれば、宴席で残ったお酒は気になるもの。
しかし周囲の手前、ましてや大の男が、自分から持ち帰るなどそんなケチなことはできない……との男衆の心中を見越しての、女将の気配りだ。

「実際に苦労していなければ、とっさにああいう行動は取れない」
と、父はぽつりと言った。

父は大学卒業後、東京で大手企業に就職し、辣腕をふるっていたけれど、母と結婚するため田舎に戻ってきたらしい。
「らしい」というのは、私は父親とは距離をおき、あまり話もせず、ましてや彼の経歴などといったことは興味もなく聞く機会もなかったので、真偽を確認できぬまま今に至っているからだが。

しかしそのときばかりは、父を父としてではなく、一個の人間として労を謝す気持ちになったのだ。

「都落ちした」ともとられる中途入社の環境の中、世襲制でない会社の権力競争に揉まれ、最終的にトップに就くのは、決して平坦な道程ではなかったろう。
苦労してきた人間だからこそ、他人のちょっとした気配り言動から、相手の苦労も見えたのだと思う。

各自が仕事の中で、相手の気持ちを量る気配りを生かせたら。胸を張って「よい仕事をした」と思える人が増えたなら。今より少し、よい社会になるのかもしれない。

他人の苦労が見えた父を見て、「この人にはこの人なりの苦労もあったのだ」と思うと、少し鼻の奥がツンとした。
そんな娘のお話。