イスラム教の預言者ムハンマドは「超・猫好き男子」

■元祖・猫好き男子 ムハンマド

ご存じの方も多いかと思いますが、イスラム教では猫をとても大切にします。
なぜならイスラム教の預言者ムハンマド(571年~632年)が、「超・猫好き男子」で、たいそう猫をかわいがったからです。

日本の猫好きといえば、平安時代の宇多天皇(887年~897年)が有名です。彼の書いた『寛平御記(かんぴょうぎょき)』は、自分の飼っている黒猫への熱い想い(と自慢)を綴った「現代版猫ブログ」として名高いですが、それよりも約300年早く、預言者ムハンマドの猫好きは知られていました。

時代は変われど、国は変われど、いつの世も猫好きはいる・・・・・・そう、必ずいる・・・・・・・・・といったところでしょう。

(参考記事:寛平御記 – くるねこ大和

 

ちなみに猫というのは、大声を出す人、乱暴で落ち着きのない人、下品な人、粗野な人、支配的な人、無神経な人、ズケズケと個に踏み込んでくる人、権威に阿る俗人などを、本能的に嫌います。
「あの人さぁ、ちょっとアレよね・・・」と、職場で女子社員にけむたがられている上司タイプは、おそらく猫とは相容れないでしょう。

預言者ムハンマドは、いつも物静かに微笑み、語り、母親という存在を尊敬し、女性の尊厳や意見を大切にし、思慮深く耳を傾け、一人の時間も好きで洞窟にこもり、瞑想し、酒に酔って騒ぐ不品行を嫌い、不正を嫌い、下品な言動一切を嫌う人物でしたので、猫とは相思相愛になれる、穏やかでデリケートな性質を備えた男性だったのではないでしょうか。

 

猫は、常に自分の身体をなめてきれいにする清潔さからも、追従しない独立心からも、ムハンマドの寵愛を受けたことからも、「真のペット」としてイスラム教徒に広く愛されてきました。

実際にイスラム圏を旅すると、猫がそこらじゅうにボトボトと落ちて、のんびり平和にくつろいでいます。それはもう伸びっぷりがよく、カフェでも道ばたでも、液体のように長々と伸びてリラックスしています。

モスクにも猫が悠々と入り込み、礼拝中のムスリムにスリスリと身体をこすりつけている光景をよく目にします。しかし皆追い払うでもなく、そのまま礼拝を続けていました。
外猫への餌やりにも目くじらをたてる日本とは違い、イスラム圏の懐の広さを感じます。

(参考記事:「カラパイア」~猫は全神説。イスラム教のモスクに現れ聖典を読む指導者にモフを要求。あげく一番高い位置に鎮座する~

 

■預言者ムハンマドの猫好きエピソード

預言者ムハンマドの猫好き話は、『クルアーン』ではなく、預言者の言行録『ハディース』に多く記録されています。
「猫への愛は信仰の一側面である」と言いきり、猫を迫害することや殺すことを禁じていました。
猫を餓死させた女性に対しては、さすがの温厚なムハンマドも怒り心頭。「この女性は地獄に落ちる(怒)」と、厳しく審判をくだしました。

ムハンマド一家では、人と猫が同じ皿から食事することも厭いませんでした。「うちもそんなもんだな」という猫飼いさんは、結構多いのではないでしょうか。「猫好きあるある」です。

 

また預言者ムハンマドは、可愛がっていた愛猫ムエザが礼拝服の上で寝ていたとき、気持ちよく寝ているのを起こすのがかわいそうで、袖を切り落として袖なしの服で礼拝に出かけたと伝えられています。ムハンマドが帰宅したとき、ムエザは感謝の意を示し、三度おじぎをしました。

このエピソードは、イスラム教における「慈悲」という観念とむすびつけて語られていますが、スヤスヤ寝ている猫を起こしがたいのは、預言者も一般人もおなじということでしょう。親近感を覚える逸話です。

ちなみに額に「M」模様のあるキジネコがいますが、それはイスラム教では、ムハンマドの指が触れたときに現れた「ムハンマドのM印」だと言われています。

 

■じつは犬にも優しかったり

イスラム教で犬は不浄、という概念があります。

「犬と同じ皿を使ったときは、その皿を7回は洗うべき」など、猫の扱いと比べるとずいぶん手厳しいですが、それは当時死者が多く出た狂犬病を避けるためという理由からで、じつは預言者ムハンマドは、犬に対しても慈愛をもって接していました。

『ハディース』には次のようなエピソードが登場します。

 

『アブー・フライラ(ムハンマドの教友)によると、神の使徒は語った。或る男が歩いているとき、烈しい渇きを感じたので井戸に下りて行って水を飲み、出てくると、そこに犬が居て渇きのあまり湿った土を噛んでいた。そこで、男は、この犬は自分が苦しんだような渇きに苦しんでいるに違いないと思って、また井戸に下りて行き、靴に水を満たし口にくわえて上がって来て犬に飲ませた。アッラーはその行いを嘉し、彼の過ちを赦した」と。そこで人々が神の使徒に「私達は動物にしてやった良い行いのために報いを与えられるでしょうか」と尋ねたとき、彼は「どの動物にした行いに対しても報いを受ける」と答えた。』

 

喉が渇くあまり湿った土をなめている犬を見て、かわいそうに思ったアブー・フライラは、井戸に降りて自分の靴に水を汲み、犬に飲ませてあげた。それを聞いた預言者ムハンマドは「よい行いをした」と讃えた・・・・・・という、なんだか涙の出るようなほっこりエピソードです。

最近、イスラム教徒のドライバーが、「犬は不浄だから盲導犬はアウト」として、盲導犬を連れた客の乗車拒否をしたケースが問題となりました。
形式や時代背景にとらわれ、思いやりや互助の精神といった、本来の信仰趣旨を見失うことのないよう、お願いしたいものです。

 

■預言者ムハンマドの猫友

ちなみに、犬に水をあげたこのアブー・フライラという男性、預言者ムハンマドの教友でもあり、同時に「猫友」でもありました。つねに猫をかわいがり、子猫をたくさんはべらせ世話していた人物です。

「アブー・フライラ」というのは本名ではなく、あだ名です。
「アブー(Abu)」は「お父さん」という意味で、「フライラ」というのは「猫(hirratun)」をかわいらしくスラング表現にした単語です。

直訳で「子猫のお父さん」なのですが、ニュアンスで言えば、「猫おばさん」ならぬ、「にゃんこオヤジ」といった感じでしょうか。その「にゃんこオヤジ」というあだ名が、後生まで『ハディース』に愛称として残ってしまったという顛末です。
本人としても想定外のことだったでしょう。

 

イスラム教では、動物に対して慈愛をもって接することは極めて自然な行動であり、シリアのダマスカスには、市民の寄付によって猫の病院、年老いた猫の養老院が設置されています。

野生を備える猫までもが警戒心を持たず、のびのびと暮らし天寿を全うできる社会。
これこそ平和の象徴ではないでしょうか。

弱き存在や、小さき命の末端にまで愛を注ぐことが尊ばれる文化は、ぜひ日本にも浸透してほしいと、昨今の殺伐とした記事を目にするたび感じてしまうのです。

(2月22日執筆:猫の日記念記事)

 

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