仕事の炎


火事を近くで見たことのある人はどのくらいいるだろうか。
私は小学校低学年の頃、かなり近くで火事を見た。
空は茜色に染まり、黒い煙がもうもうと立ち上り、木造の二階の窓からは、生き物の赤い舌のような炎がネロネロと噴き出していたから、かなり大規模な火事だったのだろう。
家族で移動していた車中からだったので、その場に留まり、見物はしなかった。
 

後車に押されるままゆっくりと現場を通過したのだが、そのときに信じがたい光景を見た。大きいカンバスを抱え、布のバッグを襷掛けに、下駄に裸足で駆けつけた絵描きの姿である。

 

四十代半ばといったところだったろうか。初老というには、まだ面差しは若かった気がする。
慌てて無造作にバッグに差し込んだと思える絵の具やらパステルが、ばらばらと道端に落ちるのも厭わず、その男性は鬼のような形相で火事を描写し始めた。
炎に照らされて明々と照らされた顔、爛々と輝いたあの目は、今も忘れられない。
 
後から聞きかじった話だが、その男性は、周囲ではちょっと知られた画家であったという。今は名前も忘れてしまったが、しばらくしてその人の個展が市内で開かれるのを知った。図書館や公共施設のカウンターに置いてあったチラシを、人が持っていくのを見るたび、私はヒヤッとした。

もし火事の被害者がその絵の存在を知り、見てしまったら、憤ったりしないだろうか。「他人の不幸を食いものにして!」と、会場に怒鳴り込んできたらどうするのだろうか、など、子供心に余計な心配をした。

後で考えてみたら、私はその絵を見たこともないし、完成されたか否かも知らないのだった。
 
 

芥川龍之介の「地獄変」を読んだことのある人は多いと思う。

平安時代、良秀という絵仏師がいた。高慢ちきで嫌われていたが、腕前は天下一で、その名は都じゅうに轟いていた。

この良秀には娘がいたのだが、親に似ずやさしくかわいらしい娘で、当時権勢を誇っていた堀川の大殿に見初められ、女御として屋敷に上がった。
娘を溺愛していた良秀は、娘を返すようたびたび大殿に言上しては心証を悪くし、一方娘も、大殿の恋情を頑なに拒み、恨みを買っていた。

そんな時、良秀は大殿から「地獄変」の屏風絵を描くよう命じられる。
良秀は真の芸術作を仕上げるため、手本として、燃え上がる牛車の中で焼け死ぬ女房の姿を見たいと大殿に告げる。大殿は、異様な笑みを浮かべつつ、その申し出を受け入れた。
当日、車に閉じ込められ火をつけられたのは、良秀の娘であった。
しかし彼は、嘆くでも怒るでもなく、陶酔しつつ成り行きを見届ける。娘が悶え焼け死ぬ様を、父である良秀は芸術家として、ただ厳かな表情で眺めていた。娘の火刑を命じた大殿すら、その異常な執念に圧倒され、青ざめるばかりであった。
やがて良秀は見事な地獄変の屏風を描き終え、絵を献上する。
そして数日後、部屋で縊死する。
 

至上の芸術性を追及し、納得ゆく完璧な仕事をするためには犠牲をもいとわないという姿勢が、常人の一線を越えてしまった話である。
私はこの本を読んだとき、幼いときに見た火事の画家のことを思い出した。
もし問いただせば、良秀もあの画家も、「これが自分の仕事だから」と胸を張って答えるのだろうか。

 
 
 
同じく火を描いた画家で、高島野十郎という人物がいる。

東京帝国大学の水産学科を首席で卒業するほどの秀才で、将来を嘱望されていたが、卒業時の銀時計を拝辞してまで、突如画壇に進んだ。
彼は淡い蝋燭の炎や月光の連作を好んで描いた。
私は数年前に三鷹で開かれた個展に行ったが、現物の美しさと透明感にため息が出た。
 

野十郎は世俗との接触を拒み、山中のあばら家にたった一人で住み続けた。6坪ほどの朽ち果てた茅葺の小屋はトタンや板でつぎはぎされ、風雨もろくに凌げなかったという。水は井戸を掘り、粗末な七輪で自炊をし、ランプの明かりを頼りにひたすら描いた。

ただただ毎日自然と対峙してそれを写しとる毎日。彼は地位も名誉も名声も求めなかった。

野十郎が85歳のとき、もはや立つこともできなくなったのを見かねて、村の人たちが老人ホームに連れて行こうとしたところ、野十郎は激しく抵抗して小屋の柱にしがみついて離れなかった。
村人たちは、指を一本一本はがして、無理やり搬送したという。
 
高島野十郎の描く蝋燭の炎も月光も、高潔にして清涼。
自然のもつ侵しがたい気品。これほど澄み切った自然の美を写し取れる画家を、私はほかに知らない。

もはや彼の場合は、仕事を超えた「魂の使命」に突き動かされて描いていたのであり、作品に金銭は介入していなかった。その美意識と生き様は、痛いほど作品に顕れている。
 
 
 
芸術性と仕事の境界や、モラルの正誤についてここで述べることは難しい。
しかし自然の美に身をささげて朽ち果てた野十郎や、かつて目にしたあの火事場の画家のように、自分はすべてを捨てて、魂の赴くままに心の炎を燃やしたことがあっただろうかと、時折思い悩むのだ。
ばらばらとこぼれ落ちる絵の具をものともせずに、突っかけた下駄を高らかに鳴らし、丸首のくたびれたシャツ1枚で人目も気にせず火事の人だかりに飛び込んだ、あの画家の目に宿った炎は、正論などでは消せない、強い情熱の火が宿っていた。
 
 

趣味でも専門でも、いろいろな物に目移りしてはすぐに放り出す、飽きっぽい自分の性分にずっと嫌気がさしてきた。
我を忘れるほどの仕事に出会えた彼らを、今私は、うらやましさすら感じるのだ。