ニンベンさん


ニンベンさんとは、「偽造クリエイター」の隠語である。
「偽」の字の偏をとって、ニンベンさんと呼ばれる―――。別称、ニンベン師。

 

国会議員秘書を十年つとめたみっちゃんが、新宿ゴールデン街のバーテンを始めたのは、平成もまだ二十年に届かない年だった。

わたしとみっちゃんは、とあるイベント企画会社の仕事で出会い、意気投合した。わたしはその企画でライティングを請け負い、みっちゃんは中途入社の新人で、先輩といっしょに企画進行全般を担当していた。

みっちゃんは小柄で人懐こい、人好きのするいい子だった。大ぶりのめがねをかけた無防備な笑顔は、まるでアニメのあられちゃんみたいで、あの笑顔にはずいぶんなごまされたものだ。
みっちゃんにとっては、国会議員秘書を辞めてから最初の仕事で、「会社での仕事、すごくうれしい。頑張ります」とはりきっていた。

ところがみっちゃんがついた先輩というのが、新人をいじめることで有名な、ひと癖もふた癖もある女性だったので心配していたところ、案の定、みっちゃんは企画会社を二カ月で辞めてしまったのだ。

心配していた矢先、ゴールデン街にバーテンとしてもぐりこんだと報告があった。

 

ゴールデン街は新宿のカオスだ。
おなじ新宿でも歌舞伎町一番街や二丁目とはまた違う、独特の雰囲気がある。文化人とクリエイティブ系業界の不夜城。サブカル文化やアングラ芸術の発信地ともいえる。

有名どころでは、Bエリア「クラクラ」など。坂口安吾夫人が銀座で開いていた文壇バー「クラクラ」から、承諾を得て、先のオーナーがつけたものというのは有名な話だ。9坪ほどに40人ほどが入れるという大箱のその店は、一ヶ月に一度程度、歌人の俵万智さんが、カウンターで料理を作りママ業をしていた。

みっちゃんの店もおもしろかった。

店の看板は有名漫画家の書いた手書きで、それ自体が名物となっていた。飲みにくる常連客もアート系クリエイターが多い。みっちゃんの人徳もあるのだろうが、とにかく客層のよいことが私を安心させた。

わたしは当時、みっちゃんの店で飲むため、裏新宿をたびたび訪れるようになったのだが、そのおかげでいろいろな面白いことを聞き、面白いものを見た。

 

今はどうだか知らないが、おなじ歌舞伎町でも、ゴールデン街から離れた歌舞伎町一番街は、ホストの客引きが絶えない。飲み屋も「ケツ持ち」の存在が匂い、歩いているだけで治安の悪さを感じさせる。

たとえばある小汚い居酒屋は、早い時間から開店している。商売になるのだろうかと思って見ていると、けっこうひっきりなりに人が出入りする。ヨレヨレの伊勢丹の紙袋を持っている人が多いなと思ってはいたのだが、それがシャブ売買取引の目印だとうわさで聞いたのは、かなり後になってからだった。
そういえばそのあたりでは、奇声を発し、細い裏路地をあちらこちらぶつかりながら、正体をなくして、左右ジグザグに走っていく人がよくいた。

またある夜は、スモーク窓の黒塗りのベンツがスッと店の真横に横付けさるのを見た。車から男が降りた途端、道端にいた人がわらわらと群がり、ベンツから店入り口までその男をカバーする「弾よけ」の壁を作った。
フラッシュモブかと思うほど、その辺りにいた普通の人たちが、一瞬でその人の周りに集まったのだが、不思議だったのは、普通のスーツ姿の一見カタギ風の人もけっこう混じっていたことだった。
「市役所勤務です」とでも言いそうな、堅い感じの雰囲気の人が複数人いたのだ。

「あからさまにその筋の風体」という人ばかりが、その筋の人というわけではないのだな、と、へんに感心したものだった。

 

私がそのような新宿奇譚を話すとき、みっちゃんは決まって、
「わたしは国会議員秘書時代、もっと見たくないもの、たくさん見ちゃったからねぇ」
そう言っていつも通り、ニコニコと無邪気な笑顔を見せた。

 

距離にすれば少ししか離れていないが、二丁目に行くと、ぐっと雰囲気がクリーンになる。女性が飲むにはもっとも安全なエリアかもしれない。ナンパ目的で男性から声をかけられることなど一切ない。路上で酔いつぶれていても、おそらく放っておかれるだろう。

しかし店舗それぞれに厳然としたルールがあるらしく、それを侵害する素人は歓迎されないと、ゲイの友人はわたしに忠告した。

「この店はミックスバーだからあんたも入れるけど、あっちの店は女NG。入ってみてもいいけど、ドアを開けただけで、たぶん嫌な顔されるよ。あと、そっちの地下の店はエリート外人がほとんど。ハーバードとかオックスフォードとか出て、仕事で日本に来てる外国人エリートが出会いを求めて集ってる」

 

歌舞伎町一番街も二丁目もおもしろかったが、ゴールデン街がいちばん水があった。
いくつかの店で飲むうちに、ゴールデン街にも「怪しい店」と「そうでない店」があることを知った。

ゴールデン街の住人とすっかり顔なじみになったみっちゃんは、ある日、わたしをほかの店に案内してくれた。いい感じにさびれたその店に入ると、カウンター席には派手なプリントシャツのアフロヘアの男性がひとり、マスターと話をしていた。みっちゃんはにこにこ笑いながら、最新映画を見たの見ないのの挨拶を交わし、カウンターの隣のテーブルを陣取った。

みっちゃんと私がジーマを注文して飲んでいると、アフロヘアの男性とマスターが、ぼそぼそと会話をしているのが聞こえてきた。
ときおり 「ニンベンさんが……」 「納期…」 「トバシノケイタイ(?)……」「ニンベンさん…」という言葉が漏れ聞こえた。

店のメニューに「店長イチオシ手打ちざるそば」があったので、わたしはそれを目ざとく見つけて言った。
「あのー、このそばつゆ、ニンベン使ってるんですか」
聞こえてきた「ニンベンさん」という言葉を、わたしは単に、店に卸しているめんつゆ会社関係者のことだと思ったのだ。

最初ふたりはキョトンとして私をみたが、すぐに言わんとすることを理解したらしく、大笑いしながら言った。

「違うよ。ナメてもらっちゃ困るな。うちのそばつゆは利尻と本枯節鰹節とざらめで、おれが手間暇かけて作ってるのよ。信州出身だからさ、そばにはうるさいの。―――ニンベンていうのは………」

 

わたしだけだったら、そこまで話してくれなかっただろう。同業者で顔みしりのみっちゃんが一緒だったから、気がゆるんだのかもしれない。それでも、「そんな仕事をしている人もいるらしいって話。ゴールデン街でよくある、根拠のない噂話だよ」と付け加えた。

ニンベンさんとは、「偽造クリエイター」の隠語である。
「偽」の字の偏をとって、ニンベンさんと呼ばれる―――。別称、ニンベン師。

 

偽造クリエイターの仕事というのは、案外需要が高いらしい。
「噂話」のわりには具体的に教えてくれたのだが、昔はテレホンカードが主流で、今は保険証、免許証、パスポート、コンサートの偽造チケット、商店街の金券、各種回数券などがあるという。アフロ男性は、ヘラヘラ笑いながら教えてくれた。

意外だったのは、偽造免許証などは、かならずしも「悪事目的」の発注に限らないということだ。
女装バーの常連客が、女性である「別の自分」を存在させたくて、自己満足で作るのはよくあることだという。本当にいろいろなニーズがあるものだ。

入手困難なコンサートチケットなどはネットで売りさばくと金額が跳ね上がるが、そればかり作っていると業界ではバカにされると、アフロ男性は陽気に笑った。

「金にはなるだろうけど、あんな誰でも作れるカンタンなもの、作ったって面白くはないだろうな。イラストレーターかフォトショップのソフトで、すぐだよ。プロの仕事じゃない……オレだって作れる」

どうやら彼らには彼らなりのプライドというものがあり、簡単に偽造できるコンサートチケットや回数券などを依頼されると、がくっとテンションがさがるという。コストパフォーマンスは悪くても、写真入りのむずかしいものは燃えるそうだ。

わたしは当時、デザイナーさんと組んで仕事をしていたので、自分のチームのデザイナーに「ニンベンさん」がいたら嫌だなぁと思い、それを聞いていた。

 

私はふと尋ねた。

「でもニセ札は無理だよね。日本のお札は精密で、暗号とかホログラムとか組み込んであるから。あんなのぜったい偽造できないよ」

するとアフロ男性は、スッと目を細めた。そのときだけは真顔だった。こめかみがピクっと動いた。
彼は熱のこもった声でゆっくり言った。
「あのな、基本的に人間が作ったもので、偽造できないものなんてないんだよ。人が作ったんだから。あとは機械と費用の問題だけだ。……作らないからといって、作れないわけじゃぁない」
彼自身の言葉のように聞こえた。

 

仕事のプライドというのは、誰にでもあるだろう。偽造クリエイターを仕事といってよいかどうか、私にはわからないが。
ただ言えるのは、あのとき彼が言った言葉は、「噂話のまた聞き」などではなく、彼自身の気持ちがこもった、命の宿った、生きた言葉としてわたしに届いたということだ。

「あのな、基本的に人間が作ったもので、偽造できないものなんてないんだよ」
「作らないからといって、作れないわけじゃぁない」

あれは彼自身の内から出た言葉だった。確かめる術はないのだが、私にはへんな確証がある。ヘラヘラ笑うのをやめた、あの強い言葉には、彼のプライドがこもっていた。

 

それ以来、私はときおり、お札をまじまじと見るようになってしまった。
もしこの1万円が「彼の仕事」だったとしたら。
いや、もし彼が手掛けたとして、「彼の仕事」だと永遠に判明しないことが、彼が仕事を完璧にやり遂げたという、たしかな証なのだが。
まさかな、と少し笑い、わたしはお札を戻しパチンと財布を閉じた。

 

現在、新宿ゴールデン街は約300の店舗が軒を連ねている。
再開発の標的になったことが幾度となくあったが、あまりにも複雑な権利関係と地回りの縄張りなどの問題から、現在のように、昔の形のまま存在し続けているのだ。
古い伝統を守る店から、スタイリッシュなテーマの若い店まで、昭和から変わらぬ木造建築の建物の中で、それぞれが独自のカラーを競い合い、ゴールデン街全体の異空間を演出し、新たなエピソードを刻み続けている―――。